管内閣に対する不信任案決議が、予想を超える大差で否決されました。
一般的な国民感情からすると、管内閣の継続を求める向きは圧倒的少数ではないでしょうか。ただ、今後の復興の基礎を固めなければならない今、解散総選挙を前提とした野党の動きにも、党利優先という印象を拭えず、特に被災地の方々は複雑な思いで昨日までの動きを見ていたように思います。
管政権が継続することの是非はここではひとまず置かせていただき、今の我が国が抱える危険について書きたいと思います。
では、その危険とは何か。
それは、現在の政治状況が、ファシズムを生み、独裁政治に向かう道筋となってしまわないかという点です。
「沈黙の螺旋(ちんもくのらせん)」という政治理論があります。エリザベート・ノイルというドイツの学者が唱えたもので、ナチスの台頭という悲劇を通過して、その検証などをもとに構築された社会意識への考察です。
この沈黙の螺旋理論によると、ファシズムへの過程を4つの段階に分けています。
1.経済的な閉塞感による漠然とした大衆の不安
景気が悪くなり、将来に不安を抱えるが、しかし具体的・画期的な打開策を誰も示せず、漠然とした不安を国民が抱えます。
2.身内に対して仮想的を立てる
その漠然とした不安や苛立ちに対して、権力者は、国民の不安の解消とは別に、多くの国民に支持される政治課題を新たに見つけようとあれこれ検討します。鬱屈した国民感情を怒りとして向けさせ、大衆を誘導しようとするのです。
世界の歴史では、この段階で他国との戦争となる場合が多いのですが、国費の面などさまざまな理由でそれを実行できない場合に、次の段階へと進みます。
3.少数意見を封殺して一つの世論に
国外に敵を立てる事ができない時に、国民のネガティブな感情を怒りとして向けさせる先として、国内のどこかが選択されます。ドイツであればユダヤ、そして日本であれば公務員、というように。そして、歴史的経緯や背景などはほとんど無視され、時の感情のままに、強烈な批判と攻撃にさらされます。その流れに、異論を唱える少数派は、集団への帰属の危機を感じ、口を閉ざして大きな流れに追従し、ついには世論は一つしかなくなります。
4.指導者を妄信する世論の完成
その後、その“仮想的”を発見した者を指導者として、多くの国民が“内なる敵”を攻撃し続けることで、かりそめの達成感や陶酔感を得ます。そこで生まれたのは、集団で現実逃避をしたことによる連帯感ですが、そのような集団心理は、指導者を妄信し、次なる攻撃先を求めてしまいます。
これを、バブル経済崩壊後の日本に当てはめてみます。
1.プラザ合意後の急激な景気の高騰から一変し、一気に経済的な苦しみを味わい始めますが、次なる景気浮揚の手立てもなく、国民は苛立ち始めました。
2.その責任を他国に求めようとしますが、もともと巨大な双子の赤字を抱えた米金融の救済策としての面が大きく、その役割を果たすためのプラザ合意を基本としているため、米国には文句も言えません。米国債を売り払ってやりたいと呟いた橋本龍太郎氏は、国際的な非難も浴びました。その米国が主導する国連中心主義の先進国に対しても、自立的な態度もとれないまま、国際社会の中での孤立が際立ち始めます。
3.景気が良ければ、人々はこんな風に言っていました。「誰が地方公務員になんかなるんだよ。あんな人たちは、議員なんかのコネで地元で生活するしかない人たちなんだろう」。しかし、景気が悪くなると、その安定性や厳しくはない労働環境に対して、嫉妬や怒りが沸き起こり、一気に批判の的になりました。或いは、“議員”という存在もそうかもしれません。「なにもしてないクセに、先生なんて呼ばれて、高給を取ってやがる」。そのため、公共的な政策でどのように暮らしの向上を図るかという判断材料よりも、公務員批判や議員批判をただ展開する人が有権者に支持されやすいようなマインドが高まっています。
4.野党による対案と比較して与党が劣っているならまだしも、合理的な比較ではない批判の中で、常に“与党”的なものが攻撃されるようになりました。特に政党政治に対する信頼は、地に落ちてしまったと感じます。しかし、政党政治のメカニズムは、日本の憲法が現行としてある以上、合理性や効率性も踏まえ現実的な政治を行うにおいて必要な構図であるはずです。加えて、議員内閣制をも一気に不要なものと言わんばかりのポピュリズムが、今回の管内閣不信任案可決を期待する意識の根底にあったような気がしてなりません。
私は民主党支持ではありませんし、自民党籍を持った市議会議員でした。それに、管首相を好き・嫌いという多少下品な判断をすれば、嫌いです。しかし、今回の不信任案が可決されなかったことは、良かったと思っています。
それはなぜか。
今回、沈黙の螺旋へと陥らせなかったのは、まさに被災者の方々でした。野党は『被災者のために管ではダメだ』といって不信任をつきつけ、一方では何もできないのに『被災者のために頑張るときにこんなことをしている場合か』といって野党を批判する与党。そのどちらにも冷ややかな目を向け、ただただ、平穏な日常を願う被災者の思いが、稚拙な倒閣図を回避させたのではないかと思います。そうでなければ、管政権の支持率や評価から見て、民主党の造反を確保した賛成派が過半数を握り、不信任は可決されていたでしょう。
そういった流れで登場する首相や政権が、健全な支持を得たものとは私には考え難いものです。そこで表れる代表や政権が即座にファシズムを現実のものとするわけではないかも知れません。それよりも、恐らくですが、交代した後で、同じように国民から総スカンを食うような気もします。ただ、そういう事を繰り返しながら、沈黙の螺旋の第4段階を迎えて、誰かがその中心に据えられてしまうことが、私が思う、現在の政治情勢における危険性なのです。
自主的な、早期の退陣を仄(ほの)めかして首相に居座るなどと既に言われ始めていますが、それでもその事は、近い将来に国民的に批判し、管氏への評価として厳しく下せばいいと思います。繰り返しますが、民主党も管氏も、僕は評価しませんし、嫌いです。でも、被災地の方々の「普通の暮らしを取り戻したい」という当たり前の、そして切実な願いが、「今やるべきことは復興だ」という目的や目標を再確認させてくれたのです。経緯はどうあれ、不信任案は否決されました。ならば私たちは一丸となって復興を目指し、沈黙の螺旋から逃れて、健全な絆による国民の連帯を築いていかなければならないと思います。空虚な倒閣劇が大きな悲劇につながるより、今は、あれほどダメでも一度は選んだ首相に対して、与野党ともに最善の策を提示しながら前進していくしかないのです。